快適な明日のためにブッタの教え「老いや死を受け入れる」編

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快適な明日のためにブッタの教え「老いや死を受け入れる」編

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はじめに

一般的には釈迦のことをブッタと呼びますが、仏教では悟りを得ることをブッタと呼ぶそうです。

ここではブッタはゴータマ・シッダールタという仏教の創始者のことを指し、ブッタの言葉をより分かりやすく、簡潔にまとめてみました。

あなたの快適な明日のために何か一つでもお役にたつものがあれば幸いです。

今回は「老いや死を受け入れる」編です。

人間の悩みは4つに分類できる

人間の悩みは、大きく分けて「お金や仕事」「人間関係」「健康」「夢や目標」の4つに分かれます。

常にお金に悩みのある人は、お金について無知で不得手です。

常に人間関係について悩みのある人は、人間関係について無知で不得手です。

常に健康に悩みのある人は、考え方や生活習慣に何らかの問題があります。

夢や目標が見つけられない人は、自分自身について無知です。

ブッタの教えを知ることで、あなたの明日が快適でご機嫌に過ごせるようになれば幸いです。

「負の感情編」をご覧になりたい方はこちら⇒

「人間関係編」をご覧になりたい方はこちら⇒

「孤独との向き合い方」編をご覧になりたい方はこちら⇒

老いや死を受け入れる

1 食事は腹八分目を心がける

ブッタ自身も2500年前のインドで80歳まで生きたと言われています。

それはおそらく、お腹いっぱいになるまで、がつがつと食べない習慣によるところが大きいのでしょう。

そしてお坊さんも、最も長生きの職業のひとつと言われています。

ただし、仏教では小食は健康のためというよりも、「もっと欲しい」という気持ちを抑えるための心のトレーニングと考えられています。

現代人が必要以上の量を食べてしまうのは、企業が私たちの欲を徹底的に研究して、抗いがたい商品やサービスを提供してくるからです。

よほど自制しないと、その誘惑には勝てません。

こうした意味でも、仏教用語の「知足(足るを知る)」=欲を抑える、を知ってもらい、自分の食欲を抑えて健康で長生きして頂きたいものです。

2 若くない自分を受け入れる

かつて、年をとった年長者は物知りな長老として尊敬されていました。

しかし、今の人たちは知りたいことはネットで検索するので、年長者に聞く必要はありません。

今の時代に尊敬される人とは、やはり心穏やかな人です。

そして多くの人生経験に裏打ちされた忍耐強さや視野の広さを持つ、人格の成長を成した人だけです。

ところが高齢者自身が「高齢者は大事にされるべきだ」と思い込み、ストレスを抱えてしまいます。

「自分をもっと大事にして欲しい」という思いが強すぎると、社交辞令として大事に扱われることはあっても、本当の意味では大事にされないものです。

人格を成長させることで評価される時代になったのだと思います。

何歳であろうと、遅すぎるということはありません。今からでも自分を見つめ直し、自分の心を整えておけば、そんなお年寄りは尊敬されますし、大事にもされます。

3 若さや健康が失われても嘆かない

「諸法無我」という言葉があります。

わかりやすく言えば、社長は会社へ行けば社長ですが、家庭では誰かの夫だったり父親だったりします

つまり私たちは「絶対固有の私」があるわけではなく、「この場面ではこういう私」というように「色々な私」を生きているのです。

諸行無常の原理を見つめれば、人は若いままではいられないことに気づきます。

いつかは老いて、病気になって、いつかは死んでいきます。

これらは全て人間のあるがままの姿です。

「まだまだ若いものには負けない」と言って若作りする人がいますが、それでは年をとることは悲しい事で、悪い事で、絶望でしかないと若い人たちに訴えているようなものです。

そうではなくて、年をとってもいつもニコニコして明るい、素敵なお年寄りでいられれば、若い人たちも年を取ることが嫌ではなく、楽しみになります。

4 病気は自分を見つめ直すチャンス

病気は自分の内側に目が向く絶好の機会ととらえましょう。

私たちは五感という感覚機能をもち、それらは常に外を向いています。

しかし、唯一自分の内側に自動的に向く時があります。

それが病気の時です。

病気になると全身全霊で「なんとかしよう」という気持ちが湧いてきます。

病気の時こそ自分自身を改めるために心の修行をしましょう。

病気というのは「その生き方を改めなさい」という体からのSOSでもあります。

体からのサインをしっかり捉えて、病気を否定するのではなく、「自分自身にとって何がいいことなのだろう?」と生き方を見つめ直してください。

心の病気など、いつ治るともしれない病気を患った場合は、先が見えずに不安になったり、自分を責めたくなったりするかもしれません。

しかし、どんなタフな人でも病気と闘い続けると心も体も疲弊してしまいます。

時には病気に抗うことをやめて心身回復につとめ、免疫力を高めましょう。

5 誰も死から逃れられない

誰も死から逃れられないことは、よく考えればわかることなのに、誰もが死から逃れようとします。

そしてそれがストレスになります。

一番怖い事は死ぬことではなく、生きている時にちゃんと生きない事です。

当たり前のことですが、死んだらもう生きられません。

いざ死を迎えたときに、「あれをやってみたかった」「これをやってみたかった」と後悔の念が湧いてきたら、ものすごく苦しいはずです。

死の事を考えて不安になる気持ちはわかります。

しかし、どうせ死ぬなら、生きているときに成すべきことをしないことを恐れましょう。

そう考えると、死を見つめることは決して悲しい事ではありません。

明日死ぬとわかっていたら、今日すべきことがはっきりします。

死を明らかにすることで、生が鮮明になり、輝かせるよう行動することができます。

6 愛する人の死を受け入れる

残された人間がすぐに死を受け入れられないのは当然のことです。

しかし残された人間が死んだ人の死を受け入れないのは、死んだ人に対して「なぜ死んだの?」とずっと怒っていることになります。

誰かの死に対する痛みというのは、裏を返せば「死んではいけない」という怒りでもあるのです。

ブッタのこの厳しい言葉に、反発する人もいるかもしれませんが、死んだ人は生き返る事ができないのに、「なぜ死んだの?」と責め続けられるのは気の毒なことです。

そのために仏教には法事があり、回数を重ねるのはそのためだということです。

亡くなった人の霊や魂があるかはわかりません。

しかし法要を重ねることで、人間の心を癒していくシステムになっていて、徐々に死を受け入れていくことができます。